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(No111) 東大寺大仏殿ほか その1

 2007年6月23日(土)、東大寺などに行った。あと、別の日にもう一度行ったのだが、その辺を適当にミックスしてお伝えしたい。


1.猿沢の池

 先日来読んでいる『水底の歌』(著:梅原猛。新潮文庫)に「十世紀に出来たとされる『大和物語』」に収録された話として「昔、ならの帝に仕えた一人の采女(うねめ)があった。大変な美人なので多くの貴族が言いよったけれど、女はけっして許そうとしなかった。天皇はその志をめでて、一夜、お召しになった。しかし、その後二度とはお召しにならなかったので、女はひどく悲しみ、日夜煩悶した。〜悩んだ末に、ある夜ひそかに猿沢の池に身を投げた」という一節がある。
(右写真は、猿沢の池。
 西側の岸から、東側の茶店やら九重の塔などを見たところ)

 
 采女の死を平城天皇は知らなかったのだが、あるきっかけで知り、大変哀れに思い、人々に歌を詠ませた。

 その時、人麿が詠んだ歌に、天皇も歌を返した。

 人麿の歌は「わぎもこの ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻(たまも)と みるぞかなしき」

 これに対する天皇の返歌は「猿沢の 池もつらしな 吾妹子(わぎもこ)が たまもかづかば 水ぞひなまし」

 
(右写真は、右上写真から少し東側に移動し、興福寺五重塔を入れて撮ったもの。九重塔も大きく写っている)


 

 

 

 梅原氏は、要は柿本人麿にまつわる「水死」のイメージや、天皇と人麿の親密な関係などを示したくて、この逸話を紹介している。
(左写真は、衣掛柳)


 しかし、いずれにせよ、私は猿沢の池にそのような逸話があることを知らなかった。

 それで、今日は少し池の周りをまわってみた。

 池の東には、九重の塔と、そして柳。
 この柳は、采女が入水する前に衣を掛けたとされ、「衣掛柳」と呼ばれる。 

 左上写真には池の向こう側にホテルが映っている。で、写真で言えばホテルの右下隅、ちょうど柳の左横の石碑で隠れて見えない辺りだとおもうだが、そこら辺に神社がある。
 この神社は、上記の采女を祀る神社で、全国でも珍しい神社である。
(右写真は采女神社遠景)

 采女神社を少し離れたところから見たのが右写真。

 これだけ見ると、別に何ということもない感じ。

 

 もう少し近づいてみる。
(左写真は采女神社の近景)

 もう少し近づいてみる。

 あまり、一般の神社との違いはわからないのではないか?

 むしろ、鳥居の下が門扉みたいに閉じられていて、中に入れないのは珍しいなあ、と感じるくらいでは?

 神社の裏手に回って、撮ってみた。

 
(右写真は、神社裏手からの写真)

 何か変だな?と感じていただけたろうか?

 要は、神社の入り口である鳥居に対し、本殿が背を向けている、すなわち、神社本殿の正面が鳥居と反対側にあるということなのだ。

 つまり、采女が入水した池を見るに忍びなくて、神社の本殿が池に背を向けてしまったということらしい。

 
(猿沢の池で群生してる亀さんたち)


 この神社の詳しい由縁については、ここのサイトで。 


 なお、左上写真のように、この池はもともと興福寺の放生(ほうじょう)池として亀などをリリースしてきた歴史を踏まえ、やたら亀さんとか魚、アメンボなどなど生き物がいっぱいいてます。 


2.奈良公園

 暑いな〜!って思いつつ奈良公園へ。というか奈良国立博物館の近くへ行く。

 暑い!と思っているのはシカさんも同じらしく、大樹の下の木陰に集合してたんで、撮ったのが右写真。

 
 で、大仏殿に向かう。

 



3.東大寺南大門


 
上司永照師のご案内で大仏殿へ・・・・・となるところだったのだが、まず集合場所の南大門や仁王像についての解説をしていただいた。

 大仏殿が平安時代の末と戦国時代の2回焼け落ちたことは皆さんご存知でしょうが、南大門は平安時代には焼けて、重源上人により復興されたのですが、戦国時代には類焼していません。

 ですから、南大門は平安時代末から、約800年の歴史を持っています。

 この南大門の豪壮な建築様式は以前は天竺様と呼ばれていました。天竺、つまりインドですね。
 しかし、現在では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれています。
 この南大門は、先ほども申し上げましたが、入宋三度とも言われる俊乗坊重源上人が復興したものです。

 ちょっと上を見上げてみてください。天井というものがありません。屋根のところまで柱が一本で通っていることがよくわかります。

 この柱は長さが約25mあります。山口県にあった桧です。

(※ 石野注 東大寺南大門の大仏様(だいぶつよう)という建築様式については、うちのサイトのここここをご参照いただきたい)



 続いて、仁王像をご覧ください。
(と、師は正面向かって左の阿形像へ)

 この仁王像については、阿形像が快慶作とか、吽形像が運慶作などと考えられていました。
 昭和63年頃から、この仁王像を解体修理したのですが、まず吽形像から取り掛かり3年かけて修理をしました。次に阿形像に取り掛かり、こちらは吽形像の経験を生かして2年で修理することができたそうです。

 この解体修理で、仁王像が約3000ものパーツを組み合わせて作られていることがわかりました。
 この像は、二体合わせてわずか69日で完成したと記録にあります。運慶や快慶や、ともかく著名な慶派の仏師が総がかりで制作したようです。

 この像は、門の内部と像の背中とが掛木というものでつながれているのですが、実は凄いんですよ。
 先ほど言ったように、この像は非常に細かいいくつもの部品を組み合わせて作られています。中心となる部材があって、そこにいろいろな部品が付いて、天衣
(てんね)のような彫刻などが施されているわけですが、真ん中の部分の木材、これを根幹材と言います。

 実は、仁王像は、この根幹材だけでも地面に立つのです。つまり、掛木などなくても自立している。鎌倉時代の特に慶派の仏像は、天平時代の頃の仏像と違って、非常に動きがありますね。体をぐっとひねったりしてるのですが、それでも立っているというのがすごいと思います。

 それと、もう一つ、この解体修理でおもしろいことがわかりました。
 私たちの感覚でいくと、根幹材は、何といってもその像の中心となるものなのだから、選りすぐった、立派な木材を使おう、そう考えるんじゃないでしょうか。
 ところが、仁王像の根幹材は、あまり立派でない、先の方で継いだような、そんな木材が使われていたのです。これは何故なんでしょうか。

 平安時代末に復興された当時の大仏殿では大仏のほか、脇侍と四天王が作られました。南大門の仁王は身長が8m余りなんですが、大仏殿の四天王は身長が13mもあったといわれています。
 つまり、南大門の仁王の根幹材などは、大仏殿の四天王を作った余りの木材が使われたのではないか、という説があるのです。

 それと、よく言われることですが、東大寺南大門の仁王は他のものと違う特色があります。
 一般的な仁王像は正面向かって右が阿形像、左が吽形像となります。また、両像はいずれも正面を向いています。
 ところが、東大寺南大門の仁王像は、向かって左に阿形像、右に吽形像が立ち、しかもお互いが内側を向き、両像が正対するかたちとなっています。

(※ 石野注 仁王像(金剛力士像)については、例えばHP「奈良散策」asahi.comで)

 
(左写真は大仏殿に向かう参道の敷石)

 師は、参道の敷石はバリアフリーということで中央部分はフラットにしたのだが、両脇は大阪で市電が廃止されたとき、不要になった敷石を再利用したものだと教えてくださった。



  師のお話はまだまだ続くのだが、ここでいったん切ることとする。続きはまた後ほど。

 どうもお疲れ様でした。

 
  


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