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(No112) 東大寺大仏殿ほか その2

 2007年6月23日(土)、東大寺などに行った。あと、別の日にもう一度行ったのだが、その辺を適当にミックスしてお伝えしたい・・・・・の続き。



4.大仏殿


 
上司永照師のご案内で大仏殿へ。
(左写真は回廊の内側から見た中門) 

 一般拝観コースではない内側(回廊)を通らせていただく。

 回廊内側から中門を見たのが、左の写真。

 一般の拝観者は大仏殿正面から入るので、大仏殿の側面だの背面を見る機会は、あまりないであろう。
 まことにありがたいことである。ありがたや、ありがたや(←あまり繰り返すとうそっぽく聞こえる)

 それでは上司師のお話を。(もちろん見出しは、石野が勝手につけたもの)
(右写真は、大仏殿の左側面。一般では正面からしか大仏殿には入れないため、それなりに貴重かな?とも思うので側面の写真を掲載させていただく)

【 (1) はじめに 】

 平城京遷都から間もなく1300年ということになります。

 それで奈良県庁や奈良市役所の部長さんとかが、平城京遷都1300年記念バッジというのをこさえて、つけておられます。

 そのデザインというのは、こう指を立てて、手の平を見せている形なんですね。


(※ 石野注 本シンボルマークについては、例えばここのサイトを参照)

 実はこのバッジ、評判があまり良くないんです。
 何か、「NO!」て拒絶してるみたいにも見えるんですね。
 しかし、実はそうではありません。このバッジがあらわしているのは、ほとけの「施無畏印」なんですね。
 「施無畏」というのは、何も怖れることはありませんよ、安心してくださいよということを示すかたちです。

(※ 石野注 施無畏印=せむいいんについては、「仏像鑑賞のご案内」(1)にて。)

 

 




【 (2) 聖武天皇・光明皇后と基皇子 】

 聖武天皇光明皇后はお二人とも701年にお生まれになりました。

 光明皇后は藤原不比等の娘で光明子(こうみょうし)とも呼ばれます。なお、聖武天皇は藤原不比等の孫にあたるので、聖武天皇にとって、妻の光明子は「おばさん」ということにもなります。

(※ 石野注 第45代聖武天皇は第42代文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘である宮子
 一方、光明子の父は藤原不比等で母は県犬養橘宿禰三千代、別名「橘夫人」(たちばなぶにん)こと橘三千代
 聖武天皇の母である藤原宮子は、光明子の異母姉)



 光明子が聖武天皇と結婚したのが16歳。女の子どもはすぐに生まれましたが、男の子はなかなか生まれませんでした。
 女性天皇の例がないことはなかったので、別に絶対に男の子でないと世継ぎになれないということはなかったのですが、10年後くらいにようやく待望の男の子が生まれました。

 この男の子のことを一般的には基皇子(もといのみこ)といいます。ただ、近年では「某皇子」つまりあえて名を伏すか、それとも本当にわからないのかは不明なのですが、ともかく「某皇子」と書いたのが「基皇子」と誤記されたのではないか?という説もあります。

(※ 石野注 二人に関する略年表を下に示す。

 701年(大宝元年)、聖武天皇文武天皇宮子夫人(藤原不比等の娘)との間の第一皇子として生まれる。名は(おびと)皇子光明皇后も同年、藤原不比等橘宿禰三千代との間に安宿媛(あすかべひめ)として生まれる。
 714年(和銅7年) 首皇子、立太子式を迎え、皇太子となる。
 716年(霊亀2年)、首皇子、安宿媛を夫人に迎える。
 718年(養老2年)、女児(阿倍内親王)を出産。
 724年(神亀元年)、聖武天皇、即位。
 727年(神亀4年)、基皇子(もといのみこ)を出産。同年11月に立太子。
 728年(神亀5年)、基皇子夭折。
 729年(天平元年)、長屋王の変後、光明子を皇后とする旨の詔が発せられる。皇后宮職を設置。
 730年(天平2年)、施薬院、悲田院設置。
 737年(天平9年)、疫病(天然痘)で藤原四兄弟を失う。
 741年(天平13年)、国分寺建立の詔
 743年(天平15年)、東大寺大仏建立の詔
 749年(天平勝宝1年)、娘(阿倍内親王)が即位(孝謙天皇)。皇后宮職を紫微中台に改める。
 752年(天平勝宝4年)、東大寺大仏開眼供養。
 756年(天平勝宝8年)、聖武天皇崩御。
 760年(天平宝宇2年)、光明皇后崩御 )



 基皇子が生まれた喜びはひとかたならぬものでした。
 我が子と同じ頃に生まれた子どものいる家庭にお金や米を与えたりして、ともに祝おうとしたようです。
 そして、この基皇子を、生まれたその年のうちに皇太子としました。「当たり前じゃないか」とお思いかもしれませんが、これは大変なことです。皇太子というのは、この国を治める天皇となることが約束されるのですから、本来、それにふさわしい資格、徳目があるかを見定めたうえで決するものであり、聖武天皇自身も14歳くらいで皇太子となったのです。

 ところが、それだけ期待された基皇子は翌年病死してしまいました。9月29日に生まれ、翌年の9月13日に亡くなったのです。
 この当時は、子どもの死亡率は高かったのですが、それでもいわゆる逆縁ほどつらいものはないですね。
 聖武天皇と光明皇后が我が子のために何をしたか、というと寺を建立しました。これはありふれたことのようですが、当時はまだ仏教伝来から200年もたっていないのですから、かなりすごいことなのです。
 これは、特に光明皇后が仏教に造詣が深かったから、と言われています。

 基皇子の菩提を弔うために建立されたのが東大寺の前身で、当時は金鐘山寺と呼ばれたようです。その金鐘山寺に置かれた13人の僧侶の中に、東大寺初代別当の良弁
(ろうべん)が含まれていたともいわれます。

(※ 石野注 この辺、以前聴いた良弁僧正に関する講演についてはここから)

 

 


【 (3) 平城京の惨状 】

 天平時代の奈良は、それは華やかな大都市でした。世界の文物、世界と言っても当時のことですから、中国や朝鮮半島、そしてシルクロードを通じて西域の文物が平城京に集まってきたのです。

 しかし、美しいものも集まりましたが、一方で「悪」も都会には集まります。これは現代にも共通することかもしれません。

 政治面では長屋王の変が、そして天災としては飢饉、旱魃、地震などが相次ぎました。

 
(大仏殿 西北角。趣旨としては上の写真と同じ) 

 そして、遣唐使は世界の文物も奈良にもたらしましたが、恐ろしい天然痘という病気も連れてきました。

 聖武天皇は防疫の方法を国司を通じて広めましたが、みやこでは4人に1人が死んだと言われています。

 当時の日本の総人口は約600万人と考えられていますが、平城京にはそのうち約20万人が集中していたといわれています。超過密都市だったのです。

 特に、最も手厚い医療ケアが受けられたであろう藤原四兄弟も次々に命を落としました。

 
(※ 石野注
 天平9年(737)の4月に参議藤原朝臣房前(ふささき。不比等次男)が、同7月に参議藤原朝臣麻呂(まろ。不比等四男)と左大臣藤原朝臣武智麻呂(むちまろ。不比等長男)が、そして、同8月に参議藤原朝臣宇合(うまかい。不比等三男)が相次いで天然痘で亡くなった)

 

 



【 (4) 聖武天皇の書体と性格 】

 さて、聖武天皇や光明皇后は、どんな性格の人なのでしょうか。よく筆跡によって性格を鑑定したりしますが、聖武天皇は、どのような書を残されているでしょうか。

  止める所は止める、はねる所ははねる。非常に正確な字です。
 また、罫線が引かれた紙に書かれた場合も、罫線からはみ出したりはしません。

 縦にも横にも字の大きさが揃っています。縦に何行というのが揃う例は多いですが、横に見ても大きさが揃っているのは、めったにありません。長い巻物であっても、1行が30字なら30字で、最後まで統一されています。字体も最後まで同じです。

 これはなかなかできません。皆さんも写経とかなさっても、最初は丁寧に書いていますが、段々疲れてきますし、いろいろ雑念もわいてまいります。どうしても字体も乱れてきます。
 手紙などでもそうですね。我々ですと便箋の1枚目と2枚目、3枚目では、どうしても字体が変わってしまいますでしょう?
 聖武天皇には『雑集』といって、中国の古典を抜書きした書があります。何万字もある長い書ですが、最後まで同じ字体です。これは凄い精神力だと思います。

 皆さんは、南大門の所に新しく掲げられた「大華厳寺」という額をご存知でしょうか?あれは聖武天皇の字なのです。
 ところが、聖武天皇が直接「大華厳寺」と書いたのではなく、残された書からいろいろ取り出して並べて拡大したものなのですが、字体が揃っているので違和感がないところが凄いと思います。

(※ 石野注 この額は私のサイトの南大門のところにも出てくるが、「文字を楽しむ」というブログでは大きく載っている)



 ただ、繊細な字体と言いますか、字が細く、非常に几帳面というか、責任感が強そうに感じられますが、やや神経質な印象も受けます。

 



【 (5) 光明皇后の書体と性格 】

 一方、光明皇后の書体は、非常に力強い筆勢です。罫線などもはみ出してしまいます。字体も、そうですね、聖武天皇の3倍くらいは太いんじゃないでしょうか。字の大きさもまちまちです。
 ある面では荒々しいとさえ思えるほどの字体です。

 その字体からは強い意志や実行力を感じさせ、日本の歴史を漫画で紹介するような本でも、たいてい光明皇后は美人だけど、イケズそうな風に描かれ、あ?イケズってわかりますよね?
(※ 石野注 「イケズ」とは関西弁で「意地悪」って感じ)
 一方、聖武天皇というと、病弱そうに描かれ、いかにも光明皇后が尻に敷いているように描かれることが多いようです。もちろん、実際にどうだったかはわかりませんが。

(※ 石野注 聖武天皇の『雑集』や光明皇后の『楽毅論』などの画像については、例えばHP「書の歴史」にて。「楽毅論」はHP「奈良時代の書」などで) 





【 (6) 光明皇后の逸話 】

  光明皇后は、とにかく決断力や実行力があるというか、仕事が早いんですね。皇后になってすぐ、自分が権力を振るえる役所、執行機関をつくりました。これを皇后宮職、後には紫微中台といいます。

 そして、興福寺、これは藤原家の氏寺ですが、まず、そこに悲田院と施薬院をつくりました。これらは、今でいう福祉施設でしょうか。

 光明皇后は、とても慈悲深い人だったという伝説が残っています。これは戦前の修身の教科書には必ず載っていたそうなんですが、光明皇后の千人風呂という伝説があります。

 光明皇后がある日、千人の人を風呂に入れ、汗を流してあげようという願をかけられたそうです。光明皇后というと、ファーストレディですが、その方が庶民の人の背中を流すというんですね。
 当時の風呂は今のものと違い、いわゆる蒸気風呂です。今のようにお湯につかる風呂は江戸時代以後のもので、当時は蒸気を満たして汗を流すというものでした。現在では法華寺に、当時の様式のものが残されています。

 それで、999人まではよかったのですが、1000人目に、えらい人が来られました。今でいうハンセン氏病の方が来られたそうです。全身が膿み爛れていたその方は、「このままでは汗も流せない。先に膿を取ってくれ」と言いました。
 おできのように指でぐうっとつぶしたりはできません。また、ただ拭き取るだけで済むような膿でもありません。すると、光明皇后はためらいもなく、その方の体に唇をつけ、膿を吸い出そうとしたところ、その方の体は光り始め、阿閦如来
(あしゅくにょらい)に姿を変えた・・・・・というのですが、まあ、そういう話です。伝説ですからね、あくまでも。

 しかし、どうでしょう。確かに光明皇后は権力も凄かったでしょうが、その人を恐れたり、媚びたりするために伝説が作られることも当然あるでしょうが、それなら、その権力がなくなれば伝説も消えてしまうのではないでしょうか。それが、現在に至るまで語り続けられているということは、人々を感動させるほど光明皇后が実際に慈悲深かったということじゃないかと思います。

(※ 石野注 法華寺については、ここのHP「法華寺」にて。) 

 

 

 




 どうもお疲れ様でした。もう少し続きます。

 
  


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