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(No79) 正倉院学術シンポジウム2006 その6 「正倉院宝物と鑑真和上」 聴講記 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 5番目の講演は、奈良大学教授・前宮内庁正倉院事務所長:三宅久雄氏による「正倉院宝物と鑑真和上」である。

 レジュメの内容は白枠内に示す。



 鑑真和上と言えばまず唐招提寺に思い及ぶであろう。しかし鑑真和上は、平城京に到着した天平勝宝6年(754)から、示寂した天平宝字7年(763)までの九年余に及ぶ滞日期間のうち、天平宝字3年(759)に唐招提寺を創建して移り住むまでは、東大寺内の唐禅院に住み、現、大仏池を挟んだ向かいにある戒壇堂において授戒活動を行なった。鑑真和上のもたらした盛唐美術はまずこの辺りを中心に華開いたに違いない。

 鑑真一行が唐朝よりもたらした品々は『東征伝』によると内裏に進上された。その後、そのまま内裏に留めおかれたもの、或いは役所や東大寺の管理下におかれるようになったものもあったであろう。それら将来品がやがて東大寺で最重要の倉、正倉に納められるようになっても不思議はない。また、光明皇太后による大仏への宝物献納は鑑真来朝わずか2年後のことで、このなかに鑑真将来品があっても当然といえる。

 鑑真和上の来朝と関わりのある正倉院宝物は薬物をはじめ、少なからずあると考えられるが、今回は工芸品のうち器物類について述べていくことにする。

 鑑真と言えば唐招提寺という印象ですが、当初は東大寺におられました。

(作品紹介)
磁皿 甲11号(天平勝宝7歳7月19日銘)
磁皿 乙1号(正倉院二彩)  高台がある。

(※ 石野注)
 三宅奈良大学教授の講演は午後2時40分に始まった。プログラムに記載された予定開始時間は午後2時ちょうどだから、だいぶ押してきている。 

 収蔵品の画像を紹介されたが、よく覚えていない。




1.戒壇堂ゆかりの正倉院宝物

 鑑真が関わったとみられる工芸品には二つの特徴が指摘できる。
(1) それまでには見られなかった装飾性の強い新しい意匠
(2) 檀像に通じる精緻・鋭利な木彫表現

 まず手がかりとして戒壇堂で使用された工芸品に着目すると、黒柿蘇芳染金絵長花形几(中倉)と刻彫梧桐金銀絵花形合子(南倉)は特徴ある意匠、精緻で鋭利な彫法、金銀泥の効果的な扱いなど、共通する趣が強く、8世紀中頃までにはなかった新しい感覚がみられ、かつ群を抜いて優れた製作である。

 黒柿蘇芳染金絵長花形几(中倉)は黒柿の素材を蘇芳(すおう)で染め、紫檀(したん)に似せたものです。
 側面に金で花枝文を描いています。足の部分は裏まで凝った彫刻を施しています。

 正倉院に几(き)は27点所蔵されています。

 類例としては「東小塔」銘粉地金銀絵八角長几粉地銀絵花形几(ふんじぎんえのはながたき)が挙げられます。これらの類品は一見華やかですが、よく見ると技法はあっさりしており、黒柿の方が凝った手法をとっていると言えます。
 時代は756年頃と思われます。

 戒壇院は715年(?)に創建されました。当時としては新しい感覚の建造物です。


  (※ 石野注)
 私のノートには「715年創建」とメモしているが、明らかに聞き誤りと思われる。
 「鑑賞記」(48)で「東大寺戒壇院」の記載を紹介させていただいている。

 また、『天平の甍』P182には、「〜清河、仲麻呂はその翌天平勝宝七年六月に、十余人の生存者と共に都長安にはいって来た。
〜仲麻呂が生きて再び長安の都にはいった頃、奈良では大仏殿の西に戒檀院が落成しようとしていた。これは前年天子受戒のあと、五月一日に戒壇院建立の宣旨が下され、直ちに工を起こしたもので〜鑑真の住居である唐禅院も戒壇院の北方に池を隔てて建てられた」とある。

 「東小塔」や「戒壇」、「戒壇院」といった銘については、鑑賞記(74)「第一章(5)東大寺の什宝類」参照。 



 刻彫梧桐4号(?)金銀器(?)は、盛唐の銀器から取ったデザインと思われます。
 材質はおそらく桂材で、金銅製の足が付いています。この足は後補です。

 
  (※ 石野注)
 私のノートには、「亀」に金属製の脚を付けたような器をスケッチしてある。正式名称はメモしきれなかった。

 さんねんねたろう日記というブログで、「刻彫梧桐金銀絵花形合子(こくちょうごとうきんぎんえのはながたごうす)は亀のような形の木製の箱。花弁を重ねたように彫られていて、それが亀の甲羅のよう」としている。
 また、山科さんのHPには「刻彫梧桐金銀花形合子二合(南36) 一合の底に「戒壇堂」と墨書。脚は新造」とある。

 要は、この亀形の器の名称は下記の「刻彫梧桐金銀絵花形合子」なのだろう。
 


 刻彫梧桐金銀絵花形合子(南倉 4号)合子の蓋は、一部の「葉」に強い反りを表現しています。そして全体は楕円形の中におさめるようにしています。
 種類は全く異なりますが、唐招提寺牛皮華鬘
(ごひけまん)にデザインが似ていると思います。
 それはデザイン全体が非常に密な感じであること。色濃い唐風で、茎・つるは少なく花や葉で埋め尽くそうとしている点などです。
 同じ正倉院御物でも平螺鈿背八角鏡
(へいらでんはいはっかくきょう)にもデザインの共通性が見られると感じます。全体を埋め尽くそうとする感じに共通性が感じられます。

 この黒柿蘇芳染金絵長花形几と刻彫梧桐金銀絵花形合子は同一工房の作ではないか?と思われます。
(※ 石野注)
 刻彫梧桐金銀絵花形合子(こくちょうごとうきんぎんえのはながたごうす)は、奈良博HPの出陳品一覧では南倉36号とある。4号というのが私の誤りか、別に同名のものがあるのかは、現在の私にはわからない。

 牛皮華鬘がどういうものかについては、東寺所蔵のものだが、奈良博HPに画像がある。また、唐招提寺のものなどいろいろ、「お仏具の知識」というHPに紹介されている。

 平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう。北倉42)については奈良博HPで。 


 



2.正倉院宝物と唐招提寺

 漆彩絵花形皿(南倉)は同一の品が唐招提寺に残っており、刻彫梧桐金銀絵花形合子とともに唐代金銀器を木彫に置きかえたかの感がある。これらは当時の工芸品では珍しく桂材を使用しているが、唐招提寺金堂の仏像の光背にも桂が使われていることが注目される。

 黒柿蘇芳染金銀山水絵箱(中倉)は盛唐山水画を彷彿させる金銀絵が注目され、紫檀に擬した用材法、床脚の精緻で鋭利な彫法が先述の戒壇堂関係品に共通する。また山水画中に描かれた独特の形の雲は唐招提寺金堂に描かれたものに近似している。この雲は鳥毛篆書屏風にも登場する。

 仏像図像では、漆金銀絵仏龕扉(南倉)に描かれた金銀絵は戒檀院厨子扉絵と特徴が近く新たな将来図像に基づくものと思われ、唐招提寺金堂や講堂の木彫像にも通じるところがある。正倉院の仏龕扉は唐僧により、光明皇太后の病気平癒を祈って書写されたと思われる大般若経を納める厨子に付属していた可能性が高い。

 漆彩絵花形皿(うるしさいえのはながたざら。南倉40)は、唐招提寺黒漆花形皿(757年)に酷似しています。(絵花盤?)
 唐招提寺所蔵の花形皿の伝来は不明ですが、鑑真一派が東大寺から唐招提寺に持ち込んだのではないか?と思われます。
 奈良時代までの木工品で、桂材が使用されているのは珍しいケースです。

 唐招提寺の乾漆廬舎那仏坐像は、金堂の本尊ですが、その坐像の二重円光や光背の千仏は桂材が使用されています。ちなみに台座や光背本体は桧材です。
 奈良時代の仏像はクスノキが使用されることが多く、桂材はまれです。

(※ 石野注)
 ノートを見ると漆彩絵花形皿について殴り描きのスケッチが残っている。花びらを5つ、ちょうどサイコロの「5」の目のような形に平面的に配置し、脚がついた皿のようなものが描いてある。そんな形だったのかな? 


 黒柿蘇芳染金銀山水絵箱
(くろがきすおうぞめきんぎんさんすいえのはこ)は、箱に描かれた文様が山水画としても出色、貴重です。谷間から湧き上がる雲のデザインに特徴があります。

 唐招提寺支輪板は8C最末〜9C初めのものですが、「瑞雲」が描かれています。

 金銀平文琴「乙亥之年」銘に描かれている雲は、山水画などで描かれる雲に近いものです。

 鳥毛篆書屏風は、日本製です。本屏風は篆書の部分が鳥の羽を貼り付けて表現されているのですが、そこに用いられている羽が日本の山鳥のものであることが最近の調査でわかりました。
 本屏風の「雲」は、支輪枝のそれより山水画箱のそれに近いものです。

 いずれも大仏開眼以前には見られないデザインです。

(画像紹介)
鳥毛立女屏風 天平時代 
羊木臈纈屏風 天平勝宝3年10月

 山水箱は、足の彫刻が立体的で、刻彫蓮華仏座などと共通点があります。いわゆる檀像彫刻に象徴的な立体的彫刻の手法です。

 これら諸作品は同一工房で作られたのではないか、戒壇院とほぼ同時代、天平勝宝8歳の頃ではないかと思われます。一番時代を遅くとると天平宝字3年の頃といえるでしょう。

(※ 石野注)
 黒柿蘇芳染金銀山水絵箱は、山科さんのHP正倉院 中倉で。

 唐招提寺の支輪板というのは国宝に指定されているようである。(HP東博展示品リスト

 金銀平文琴「乙亥之年」銘に描かれた雲というのは、井口喜晴氏の「正倉院宝物にみる神仙世界」という論文の4Pに図解があるので、それをご参照いただきたい。 

 鳥毛篆書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)については、リンク切れにならないうちは、奈良国博HPのここで。

 鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)は、HP正倉院【平城京】宮内庁HPなどで。

 羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)は、切手になってるらしく、HPひつじnewsで。



 漆金銀絵仏龕扉に描かれた神将(天)は、正倉院木彫り像に近いものです。
 その持国天像が持つ太刀に瑞雲が描かれています。

 なお、戒壇院厨子扉絵に描かれた神将はやや古様で、「大般若経」の厨子に共通するものです。

 仏龕扉の神将は唐招提寺講堂二天像に近い。唐招提寺旧講堂の伝衆宝王菩薩像、伝薬師如来像のも共通性があります。 
  (※ 石野注)
 ネット検索したら、三宅先生は『正倉院紀要』20号に「正倉院宝物漆金銀絵仏龕扉の復元的考察」という論文を掲載されておられた。それを読むときっと参考になることが書いてあるのだろうが、適当な図書館が近くにないので読んでいない。

 伝衆宝王菩薩像についてはHP唐招提寺2010プロジェクトにて。
 伝薬師如来像についても同HPにて。


 


3.鑑真和上と日本美術

 ここでは触れなかったが、新しい錦や綾の織りと文様など、鑑真一行がもたらした盛唐の美術は正倉院宝物に色濃く反映されている。装飾性の強い特徴的な意匠はその後の和様化の流れの中に影を潜めていったが、鑑真の将来した檀像や伴ってきた工人たちは、我が国の以後の木彫隆盛への道を開いた。唐招提寺より前に、正倉院にいち早くその萌芽をあらわしている。

 文物の将来ということでは遣唐使の功績も大きいが、鑑真は自らも造寺、造仏など技術的知識と経験を有し、加えてそうした工人をも伴って来たらしい。医薬においても、外国の珍しい香料・薬物が、それらの処方、知識に通じた人物と共に我が国に伝わった。外国の文化・文物を受容するにあたって、きわめて意義深いことと言える。

 
(※ 石野注)
 『天平の甍』では、何度も渡日に失敗した鑑真だが、留学僧普照の請願で第十次遣唐使の帰国の船に同乗することになったとある。また、将来品の目録で仏像も相当なものだが、特に経巻類は膨大だったとある。

 また、同書には一回目の渡航の時の将来品として経巻、仏像、仏具類のほか、麝香(じゃこう)、沈香(じんこう)、竜脳香などの薬品、香料類も挙げられているし、渡航する一行には玉作人・画師・彫刻家・刺繍工・石碑工など工人も含まれていたとある。

 

 




 どうもお疲れ様でした。

 
  


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